2021 年度研究集会のご案内

ご挨拶

 厄介なコロナ禍ですが、ここのところは全国的に感染者数が減少してきており、世の中に少し明るさが戻ってきているようにも思います。まだまだ油断はできませんが、対面での学会活動も少しずつ再開していきたいと考えております。
さて、今年の研究集会では多くの会員から個人発表の手が上がり、大変豊富な内容となりました。恒例化しておりました小特集は一時休止いたします。
今回は研究総会に引き続きオンラインでの開催となりますが、来年の研究総会では会場で多くの会員と再会することができますよう心から祈っております。

中国近世語学会会長 内田慶市
2021年11月3日

日時・場所

日時:2021年11月27日(土) 9:00 開始
場所:Zoom ミーティング

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プログラム及び要旨

個人研究発表(9:00 – 12:00)


王婷(関西大学大学院) (9:00 – 10:00)
「白話告示と聖諭講解書ー「教化のことば」」

 中国清代においては、統治者である皇帝が発した聖諭を宣講する形で民衆教化が行われてきた。この宣講活動の脚本となったものは宣講書や講解書と呼ばれ、京都大学の木津祐子教授がその講解書に使われた言葉を「教化の言葉」と称し、王又朴が手掛けた『聖諭廣訓衍』の語り言葉を対象に、(1)二人称代名詞の多用 (2)卑近な例の増補 (3)聴衆への問いかけや疑問文による話題の展開 (4)不安に対する同情と安心に対する脅迫という表裏一体の手法(飴と鞭)を使い分けるという四つの特徴があると論じた。同じ時期における公文書である告示からも、同じような特徴を持つ言葉が見られる。
本発表は清代中後期に四人の地方官すなわち張五緯・王鳳生・劉衡・李璋煜が発した告示の言葉を対象に、上記の四つの特徴と対照しながら、その類似性を考察する。さらに、非自称型一人称代名詞の使用という新たな特徴を提示し、聖諭講解書と白話告示に見られる類似性の背後にあるその理由を推測する。聖諭講解書と告示という一見関係のないものから、用いられた言語の共通性を見出し、新たな関連付けを試みたい。


東延欣(関西大学大学院)
「増田渉直筆注釈メモの内容——図解に関する発見を中心に」

 増田渉は1931年3月20日から、同年12月末までの10か月の間に、上海で魯迅から直接指導を受けた。その際に教科書として使用された『吶喊』や『彷徨』の中に、増田渉による直筆の注釈メモが大量に残っている。注釈メモの内容は具体的には、難読字句の解釈、文章の内容についての解釈、原本の誤字の修正、特殊表記の4種類に分類されると考えられる。
 本発表は、まず増田渉直筆注釈メモの内容について紹介したうえで、特殊表記の中の図解問題に注目する。伊藤漱平・中島利郎共編『魯迅・増田渉師弟答問集』から、増田の習慣を鮮明に理解することができ、増田が小説の内容について不明な箇所を書簡で魯迅に質問する際、図を用いていた場合が多いことがわかる。『吶喊』および『彷徨』の中に残されている増田のメモに、図を用いて説明している箇所が多く見られるのはその所以であろう。
 今回は特に、「阿Q正伝」に残された賭博についての図解と「故郷」に残された閏土の話に基づく「鬼見怕」と「観音手」という貝の正体の図解という2つの問題を中心に検討していく。


戸谷将義(愛知大学大学院)(11:00 – 12:00)
「近代新語“社会科学”の形成とその史的背景」

 “社会科学”という語は日本語からの借用語とされるが、中国語における語形成の史的背景や用例の詳細な検討は未だ十分に議論されているとは言い難い状況である。また、昨今“社会科学”は日本語の誤訳が中国語にそのまま取り入れられたのではないかとの指摘も見られるようになった。
 本報告では、中国語の“社会科学”がいかにして形成されたかを明らかにすることを目的に、初期の社会学に関係する翻訳文献を参照にしつつ日本語からの借用のプロセスを論じる。社会学の文献を参照にする理由は、1880年代に日本語で“Sociology”と“Social science”に対し同じ翻訳語があてられていたこと、また1930年の日本語文献に「社會科學は社會學と同義に解せられることが屡ばある」と指摘されているためである。このように、日本語では50年をかけても区別が曖昧だった「社会科学」と「社会学」が中国語語彙にどのように取り込まれたかを具体的な文献の用例を確認しつつ考察する。手順としては、まず“Social science”の概念をさかのぼり、それが日本語へどのように導入されたかについて“Sociology”と対比しながら論じる。次に、中国語の初期社会学文献について、日本語から翻訳されたもの、欧州言語から翻訳されたものを比較しつつ、“社会科学”が“社会学(群学)”と区別されて定着する過程を考察し報告する。

休憩 12:00 – 13:00

個人研究発表(13:00 – 16:15)


李云(神戸市外国語大学大学院)
「从满汉合璧教科书文献看近代北京话表示疑问的语气词」

  本文从满汉合璧教科书文献,即《满汉成语对待》(1702?)、《满汉字清文启蒙·兼汉满洲套话》(1730)、《清话问答四十条》(1756)、《清文指要》(1789)以及《庸言知旨》(1802)五种材料出发,对近代北京话表示疑问的语气词“嗎(麽)”、“呢”、“啊(呀)”等词用例进行调查。
关于此问题,荒木典子2013《疑問語気助詞“嗎”“麽”について》、陈晓2015《从满(蒙)汉合璧等文献管窥清代北京话的语法特征》、陈颖2018《早期北京话语气词研究》等先行研究,对“么”与“吗”的关系,语气词“啊、呀、哇、哪、呢、咧、了、啦、吧、吗”的用法,“么”与“吗”的用字变化,以及“呀”疑问语气词用法进行了探究。
以上研究基本都是从汉语的用例数变化来进行考察的。本文将充分考察前文提到的五种满汉合璧文献,从满语和汉语两个角度,对汉语表达疑问的语气词进行考察,力图发现满语的词尾是如何与汉语疑问语气词相对应的,并且通过五种语料的时代特点,试图发现汉语疑问语气词使用的历史变化情况。


千葉謙悟(中央大学)(14:00 – 15:00)
「チャピン・フライヤー編Syllabary for the transfer of foreign names into Chineseとその音訳漢字の特徴について」

 本発表ではLyman Dwight ChapinとJohn Fryer編の稿本Syllabary for the transfer of foreign names into Chinese(以下Syllabary)を紹介し、その音訳漢字の特徴について分析する。Syllabaryはカリフォルニア大学バークレー校に蔵されるAB二種類の稿本から成る。ウェブスター式の発音記号で示された英語音節とそれに相当する音訳漢字を記す形式で、そのペアがA本では1100組、B本では1094組ある。現行のSyllabaryの編者は少なくともチャピンとフライヤーが含まれている。その編纂年代は1904年以降とおぼしい。
 Syllabaryの音訳漢字の特徴として、英語子音に対しては(1)無声阻害音と有声阻害音を区別しない、(2)歯音摩擦音は歯音破裂音で代用する、(3)元となる英語の音節が「(子音+)母音+m/n/ng」という設定しかない、(4)英語の子音lとrを区別しない点を指摘した。また母音に対しては(1)英語の中舌的要素を含む母音は一律に「耳」で宛てる、(2)母音の詳細な区別を放棄した結果、一字が多数の音節を表す、(3)[oi]という母音連続にのみ二字の音訳漢字が用意されている点を挙げる。

休憩 15:00-15:15


佐藤晴彦(神戸市外国語大学名誉教授)(15:15 – 16:15)
「中国近世語における反語を表す“不要緊”“不打緊”について」

 本これは発表者もつい先日から気になり、調査し始めたテーマである。従ってまだ十分な考察が出来ていないことを白状しておかねばならない。
 ことの発端は今年7月から始まった『中國偵探 羅師福』にある。その第六號に、
  這一叫不打緊,却只聽得面前嗑[口叉]一聲,好似平空的起了一個霹靂,…
という一文が出てきた。この文を見た時、どうもよく分からず困ってしまった。この箇所、担当者の訳では、「この叫び声は大したことではないが、目の前に「ガチャン」の音が聞こえて、まるで突然にふいに落ちた雷みたいで…」となっていたが、それでもよく分からない。いろいろ考えているうち、“不打緊”=“不要緊”だと思いついた。となると以前太田辰夫・竹内誠編『小額 社會小説』に“不要緊”で注があったのじゃなかったかというおぼろげな記憶がよみがえり、索引を見てみると“不要緊”が収録してあり、
  (反語で)さあ、大変、ということ
という注があった(該書p.90)。「そうだ、これだ!」とようやく納得できた。つまり当該箇所は、
  そんなふうに叫んだものだから、さあ大変、目の前でガチャンという音がしたかと思うと、まるで何もないところに雷が落ちたかのように…
となると思われる。
 ではこうした“不打緊”、“不要緊”は一体いつ頃から使われ始めたのかということが気になってきたので、その後調査を始めた。まだ調査段階なので断定はできないが、清・香嬰居士撰とされる『濟公全傳』101回の、
  這一吵嚷不要緊,驚動了江洋大盗,一個叫追雲燕子姚殿光,一個叫過渡流星雷天化。
  (そのように大声で叫んだからさあ大変、片や追雲燕子と呼ばれた姚殿光、片や過渡流星と呼ばれた雷天化という、2人の名だたる大海賊の胆をつぶしてしまったのだ。)
の“不要緊”である。『濟公全傳』には「康煕七年」という自序があるので、康煕7年(1668)頃まで遡れるようだ。

閉会

*今年度会費(院生・学部生以外の方は5000円、院生・学部生の方は3000円)をまだ納入されておられない方は、郵便振替にてお納めください。