2013年度研究集会報告

日時:2013年12月7日10:30〜17:00
場所:愛知大学東京事務所

研究発表報告

1.陳小珍:五臣注『文選』における「濁音清化」について
「濁音清化」は漢語音韻学史上、重要な音声変化であり、具体的に言うと、中古漢語が近代漢語へ変化する間に「並•奉•定•澄•從•邪•崇•俟•船•常•匣•羣」などの濁声母が悉く同系の清声母と次清声母に変化したことを指す。この変化が北方の官話方言で完成されたのは、近代漢語の中期だと見られている。しかし、この変化がいつから始まり、どのような変化の経緯をたどったのかということは目下のところ定論がない。
一方、筆者は五臣注『文選』における音注の声母体系を整理する際に、濁音の反切帰字が清音字の反切上字•直音で音注され、あるいは清音の反切帰字が濁音字の反切上字•直音で音注された現象に気が付いた。本論は破裂音、破擦音、摩擦音の順により、五臣注『文選』において清音字と濁音字の混同の例を探し出し、「濁音清化」の傾向とその比率を分析し、「濁音清化」の進展を解明したい。また、濁音の摩擦音、破裂音、破擦音のうちどれが先に清音化し、清音化後の子音は有気音に属すのか、無気音に属すのか、あるいは平声字は有気音に、仄声字は無気音に属すか否かなどの問題を検討したい。ひいては五臣音注にある「濁音清化」が漢語音韻史における発展段階とその歴史的な位置づけを明確にしたい。

2.藤本健一:近代日中訳『法の精神』の法律語について
モンテスキューの『法の精神』は明治初期に何礼之の和訳で『萬法精理』と題し、1875年に刊行された。その約30年後に中国文人の厳復も同書を漢訳し《法意》(1904~1909年)として出版した。両者とも英語版を底本とする重訳である。『萬法精理』と《法意》の比較から次のことが確認された。1)両書の法律語の一致率は50%未満で、40%は中国の古典籍にある語か『萬法精理』以前の漢訳書に用例がある語であった。《法意》の法律語が『萬法精理』から影響を受けた可能性は相当低いと推測される。2)初出語の割合は『萬法精理』が18%、《法意》が58%で、厳復は自前の用語を多用していた。3)中国民国期の法律辞典に収録された法律語から見ると、《法意》にのみ見られた新語(和製漢語を除く)は全く収録されず、『萬法精理』と《法意》で一致する語の大多数が法律辞典に現れた。《法意》の訳語は登場して日が浅くまだ社会に定着していないと考えられる。
中国民国期の法律辞典に収録された法律語

  転用語 新造語 和製漢語
『萬法精理』と《法意》で一致する語数 5/5 2/4 16/24
『萬法精理』のみの語数 2/9 0/1 11/76
《法意》のみの語数 0/5 0/29 8/14

4)法律辞典の収録語彙が社会に定着した語彙だとするなら、古語に新義を付与した「転用語」と日本で誕生した「和製漢語」が定着しやすいとわかる。日本語語彙の中国語に与えた影響を垣間見ることができる。

3.『漢音集字』(1899)と近代湖北方言
千葉謙悟
 本発表ではJames Addison Ingle(殷徳生)『漢音集字The Hankow Syllabary』(1899)をとりあげ、そこに反映する音系を分析して19世紀最末期の湖北方言の様相を明らかにした。『漢音集字』はジャイルズ式を基本とするローマ字標音と当時の湖北方言に存在したと思われる5つの声調とに基づいて漢字を配列した同音字表である。
 『漢音集字』は漢口方言を反映するが、『湖北方言調査報告』(1948、ただし漢口の調査年は1936)においてはすでに見られない特徴を見いだすことができた。例えば通摂入声だけではなく遇摂の一部にも-ungと標音される音節があったり、果摂疑母字に合口の音節が出現したり、「熱」をraoと標音したりする点である。
 また『漢音集字』におけるn-とl-の標音状況および成都方言を記した『西蜀方言』(1900)から、西南官話におけるn-とl-の合流過程について一つの仮説を提示した。すなわちlから鼻音化したlを経てnに到るという変化である。これについては軟口蓋鼻音声母の一部が歯音鼻音を経てゼロ声母化しつつあるように見える(=仮説と逆行する変化)という指摘もあり、さらなる検討を要することとなった。(533字)

4.介詞“由”について―『社会小説北京』の考察から―
(新潟大学・干野真一)

◆発表報告
 本報告では太田辰夫氏の指摘を出発点として、『社会小説北京』(穆儒丐著1924年刊)に多用されている介詞“由”の考察を通じて、起点類の介詞について通時的変遷と地域的分布の理解への足がかりとすることを目指した。
“由”の用法の拡張について通時的に検討した後、『北京』に見られる“由”の用例を7つの基準「出発地点、開始時点、根拠、手段・原因、動作者、経由地、範囲」により分類した。考察を通じて、それらの用法は「場所、時間、人物、出来事」という4つの意味範疇における「起点」の具体化であり、相関性をもつネットワークであることを示した。また、同作家の手による『梅蘭芳』(1920年刊)においても『北京』と同様の特徴を有することを確認した上で、“由”を含む起点類の介詞の地域性について考察を進めた。『官話指南』や『官話類編』における使用状況と『漢語方言詞彙』等における記載状況から、“起”や“解”が北京語において地域的な特徴を反映した「有標」な語彙であること、“打”は黄河流域以北を中心とした地域に多く見られること、南方ではそのような地域的な特徴を示す起点の介詞がないこと、そして“從”や“由”は全国に広く用いられていることを確認した。それらを踏まえ、『北京』は北京語によって書かれたものだとされるものの、“由”の集中的な使用が「北京語の特徴」に起因するものとはならないと結論づけた。