2017年度研究集会のご案内

ご挨拶

 11月に入り木々もようやく色づいて参りました。今年も天候不順が続いておりますが、会員の皆様には益々お元気で研究にいそしんでおられることと思います。
 さて恒例の秋季研究大会を下記の要領で開催致しますので、どうか奮ってご参加いただきますようお願い申し上げます。
 これまでに何度か企画して参りました「小特集」ですが、今回は「満州ピジン語」を特集し、若手研究者2人に発表していただきます。活発な議論が展開されることを期待しております。

中国近世語学会会長 内田慶市2017年11月8日

日時・場所

日時:12月9日(土)13時より
場所:関西大学東京センター
東京都千代田区丸の内1-7-12サピアタワー9階
JR「東京」駅日本橋口に隣接。東京メトロ「大手町」駅(B7出口)と直結。
http://www.kansai-u.ac.jp/tokyo/map.html

プログラム及び要旨

1.個人研究発表


1)王姝茵(熊本大学大学院)(13:00~13:30)
『醒世姻縁伝』の“V+的/得+去了”の“的”について

 『醒世姻縁伝』の“的;得”は現代漢語の“了”、“着”、“地”などの意味機能を持つ場合がある。これは近世語の“的;得”の動態助詞の用法の代表的な文型と言えよう。特に、“V+的/得+去了”のような“连动”或いは“兼语”の“的;得”は動態助詞の“了”、“着”の意味機能を表し、近世漢語の代表的な用法と考えられる。そこで、本報告は『醒世姻縁伝』の“V+的/得+去了”形を通して、明清小説の比較を行い、近世漢語の“的;得”が現代漢語の“的;得”に近づき始める時期を探し出したい。更に、“的”の動態助詞の用法の変化の原因も検討したい。


2)千葉謙悟(中央大学)(13:30~14:00)
18−19世紀西洋人による中国語研究と結果補語構文―ウァロ、プレマールからエドキンスまで―

 現代でいうところの結果補語構文については英国人来華宣教師Joseph EdkinsがA Grammar of the Chinese Colloquial Language (1857)においてその定義にほぼ成功しているが、本発表ではエドキンスの記述そのものを分析するとともに、エドキンスに至るまでの西洋人による中国語研究を年代順に検討する。まず18世紀のプレマールから19世紀前半のレミュザに至る中国語研究がエドキンスの発見に至る一つの系譜をなしていた。ここからはヨーロッパの文法体系にこだわりすぎない分析態度と、それに基づく動詞分類とがエドキンスにもたらされた。次いでエドキンスに繋がるもう一つの道筋は1840年代のギュッツラフからバザンへ至るルートであった。この系統においては中国語における字(character)と語(word)の峻別が強調され、それがエドキンスによる複合動詞の分析へとつながった。さらにエドキンス自身の研究についていえば、結果補語構文の発見は実は官話の研究からではなく、それに先立つ上海語研究(A Grammar of Colloquial Chinese, 1853)においてすでにその基盤が築かれていた事実を指摘する。

3)竹越孝(神戸市外国語大学)(14:00〜14:30)
『一百條』から『清文指要』へ―套話排列と套話内容の対照から―

 清代の北京にあって、すでに母語の修得が覚束なくなっていた満洲旗人のために作られた教材が『Tanggū Meyen』(一百條)である。これは全100話からなる満洲語の会話書で、現存の刊本は1750年刊とされる。『清文指要』はそれを中国語との並置対訳(合璧)形式に改編したもので、1789年雙峯閣刊本、1809年三槐堂重刊本、同年大酉堂重刊本、及び1818年西安将軍署校正重刊本等のテキストがある。この系統はその後、蒙・漢の対訳版『初學指南』(1794)や満・蒙・漢の対訳版『三合語録』(1829)へと発展し、更にはその中国語部分がトマス・ウェイド『語言自邇集』(1867初版)の「談論編百章」に取り入れられるなど、多言語教材として興味深い変遷をたどっている。
 本発表では、その最初の段階に位置する『一百條』と『清文指要』の関係に焦点を絞り、この両書を比較対照することによって、『清文指要』の成立過程と諸版本間の継承関係を考察する。具体的には、套話排列の対照から『清文指要』が意図した教材としての姿を推測し、套話内容の対照では、特に両書の間で大きな差異がある套話をいくつか取り挙げて、その改編に込められた編者の意図を探る。全体として、『一百條』の満洲語がいかに改変され、その中国語訳が作られていったか、またその中国語にいかに手が加えられていったか、といった点を考えたいと思う。

休憩(14:30~14:45)

2.小特集:「満州ピジン語」(14:45~17:00)


4)萩原亮(神戸市外国語大学大学院)(14:45~15:15)
中谷鹿二の著作に見られるピジン中国語の分析

 1932~1945年におけるいわゆる「満州国」で発生した中国語と日本語のピジンは、近代中国語が経験した言語接触の中で最も大きいものの一つと言える。ピジンは一般に口頭でのみ存在し、書物に記録されることは少ないが、当時満州国で生活していた中国語学者・教育者であった中谷鹿二は、この言語接触を好ましからざる事態と考え、ピジン中国語と正しい中国語を対照し誤りを正すことを目的として、『満州日日新聞』の連載コラム「正しき支那語の話し方と日支合辨語の解剖」(1925年)とそれをまとめた小冊子『日支合辨語から正しき支那語へ』(1926年)を著した。桜井隆(2015)『戦時下のピジン中国語』等によって紹介された中谷のこの二つの著作は言語学的に非常に高い価値を持っているが、まだ十分な分析がなされているとは言えない。本発表では、この二つの著作の中に見られるピジン中国語を分析し、その構造と特徴について考察する。
 まず中谷鹿二と対象となる資料について概略を紹介し、二つの著作の中に見られる語彙を品詞及び来源に基づいて分類するとともに、所収のフレーズ・例文については構文ごとに整理する。発表者の分析によれば、中国語由来の語彙は実詞が多く、日本語由来のものは虚詞が多いこと、また語順の面では日本語の語順に依存する文が多く見られることを指摘できる。一般に、言語の接触において相互に関係する言語が果たす役割のうち、語彙を提供する言語は上層(superstratum)、語順の依存が考えられるのは基層(substratum)とされることから、このピジン中国語における上層は中国語、基層は日本語と考えることができる。


5)四宮愛子(関西大学大学院)(15:15~15:45)
中谷鹿二の「日支合辦語」について―言語接触の観点から―

 1894年の日清戦争頃から1945年の日本の敗戦頃にかけて、日本語と中国語の混合した表現が中国大陸において生成され、日本人と中国人間のコミュニケーションの補助手段として使用された。中国語の専門家である中谷鹿二は、これら日本語でも中国語でもない表現を「日支合辦語」と命名し、一貫して撲滅すべき言葉であると主張した。しかし、中谷鹿二の意図に反して、その使用は拡大していく。そして、中谷鹿二は1926年に大連滿書堂書店より「日支合辦語」を正則の中国語に訂正することを目的に『日支合辦語から正しき支那語へ』を出版するが、この小冊子は結果的に「日支合辦語」を体系的にまとめた文献資料になっている。
 本論は、この中谷鹿二の小冊子をもとに、日本語と中国語の接触言語である「日支合辦語」を言語的特徴と社会的機能の二つの側面から分析及び考察したものである。「日支合辦語」は、言語的特徴においては「限定ピジン」の段階、社会的機能においては「ジャーゴン」の段階に位置していたと評価できる。そして、こうした言語的機能と社会的機能の間の齟齬は、日本人と中国人の「日支合辦語」に対する捉え方に起因する。日本人は「日支合辦語」を中国人と接する際に用いる言語(コミュニケーション手段)として使用した。他方、中国人は「日支合辦語」を「日本人が話す言葉」として捉え、日本人と対応する際のフォリナートークとして利用した。

全体討論:15:45~

*発表者の方へ
レジュメは各自でご用意お願いいたします。