2015年度研究総会(関西大学東西学術研究所共催)のご案内

ご挨拶

 「立夏」とはよく言ったもので、「立夏」の声を聞くとともに、肌寒く、特に雨天が多い印象がありました四月とは違い、汗も滲むような気候となってまいりました。会員の皆様にはご清祥のこととお喜び申し上げます。
 本年度も研究総会を迎える時期となりました。
 先にもご案内しましたように、内田慶市会員、玄幸子会員のご尽力により、本年度の研究総会には、中国近世語学界を代表する蒋紹愚先生(北京大学・清華大学教授)をお招きし、講演していただけることとなりました。これは近年にない学会の慶事であり、会員の皆さま方とともに喜びたいと思います。
 どうか会員の皆さま方には例年以上に多くの方々の参加をお願いし、個人研究発表、講演に対し、積極的なご発言をお願いしたいと思います。
 また本年度は役員改選の年にあたります。私が会長職に就きましてから、早や十年が経ちました。これを機に今後の活動を新会長に委ねたいと考えております。よろしくお願いいたします。

中国近世語学会 会長 佐藤晴彦 2015年5月6日

日時・場所

日時:6月6日(土) 10時より
場所:関西大学 千里山キャンパス 以文館4階セミナースペース

関西大学千里山キャンパスへは、
阪急電鉄「梅田」駅から、千里線「北千里」行で「関大前」駅下車(この間約20分)、徒
歩約5分。または京都「河原町」行(通勤特急を除く)で「淡路」駅下車、「北千里」行に
乗り換えて「関大前」駅下車。進行側(先頭車両)の改札から出てください。
http://www.kansai-u.ac.jp/global/guide/access.html
以文館へは、関西大学千里山キャンパス正門を入り、すぐ左の坂道をお上りください。

プログラム及び要旨

午前の部 10:00~11:30

研究発表


1) 王正(大東文化大学・院)

「慧琳『一切経音義』における『玉篇』の引用について」
 発表では慧琳『一切経音義』に見られる『玉篇』からの引用を『大広益会玉篇』との比較を通して、顧野王『玉篇』の成書以降の伝承状況及び『大広益会玉篇』との相関性を探究する。
 唐貞元、元和年間に慧琳法師が編纂した『一切経音義』は、陆德明の『経典釈文』に倣い、仏典中の用字に注釈を施し、該当字の音、義、形を解説した。注釈には大量の字書、韻書が引かれているが、逸書である『広倉』、『字林』、『字指』、『纂韻』、『文字集略』、『開元文字音義』なども含まれている。『一切経音義』の字音は『切韻』、『韻英』、『考声』などの韻書に拠り、字義は『説文』、『字林』、『玉篇』などの字書によって定め、諸子百家の学説を引くとともに仏法の大義に基づいて詳しい校訂を加えた。
 『大広益会玉篇』以前の『玉篇』の版本は既に散逸しており、現存するのは残卷のみで、顧野王『玉篇』の全貌とその伝承状況を今日において正確に把握するのは困難となった。幸いにして空海大師の『篆隷萬象名義』は顧野王『玉篇』に基づいて編纂され、顧氏『玉篇』の面目を基本的に保持しており、『大広益会玉篇』との比較により顧氏『玉篇』の姿を推測できる。また、唐宋時代の『玉篇』を引用した文献の考察を通して、その当時の『玉篇』を知ることもできる。
 『一切経音義』には「顧野王云」、「『玉篇』云」と明記された引用は2000数例を数える。このことから慧琳が如何に『玉篇』を重視していたかが窺え、同時に慧琳が参照した『玉篇』の版本の還元に資すると考えられる。それは『玉篇』の歴史変遷の一様相であり、『大広益会玉篇』までの発展を促進した側面も備えている。


2) 石彦霞(河北工業大学)
「近代汉语话语标记“对了”的生成机制与功能探析」

  话语标记这一术语来自于英语的discourse markers,就国际国内来说,很难给它下一个严格的定义。不过,国内多数学者认可的话语标记具有以下功能:
话语标记是一种语言表达式,可以是词、短语、或小句。
  话语标记自身可能没有概念意义,它们的使用也不影响语句命题的真值条件。
  话语标记在语篇中的作用主要是语用的。表现当前话语与前一话语之间的某种联系。
  话语标记在分布上具有独立性,一般出现于句首,前后可以有停顿隔开。
  在以上理解的基础上,我们考察近代汉语中话语标记“对了”的形成机制及话语功能。为了研究方便,我们把“对了”所在的话语链记做S1+“对了”+S2,其中,S1代表出现于“对了”之前的具有完整意义的语句,可以是一个小句,也可以是陈述某种事件的几个小句。同理,S2也是如此,只不过它位于“对了”之后,且和“对了”之间有标点符号,有停顿隔开。近代汉语中,“对了”形成为话语标记的条件是:“对了”与S1没有语义上的直接联系,并不表示对S1表达的话语意义的赞成或同意,同时,与S2也并不存在语义上的联系,“对了”的作用只是表示某种话语功能。
  如下例:众位,你们听听,咱们俱都是养儿女的人,还有姑娘出阁,不许往娘家来往的道理吗?可有一个情理,我们这个儿妇,她的母亲死了,我们亲家翁净剩了光棍子一个人。我说他想他女儿,教他上我这瞧瞧来。他一定要接回家去,又便当怎么样呢?他要接定了,不接不行,我也不能深拦,就让他接回去了。可也不知道,他又将他女儿给了人家了或是他又卖了,他反而找到我家来,不答应我。” 对了,你总是得见着她这表兄才行呢。倘若他们半路有什么缘故,那可也难定。”一句话,就把王太问住了。杨大成说:“要是他们爷们商量妥当,半路途中把我们儿妇给卖了,咋办?” 《小五义》
  上述例句中,“对了”之前的语句论述的是一个事件的来龙去脉,“对了”之后的语句提到了事件的另一种情况,即儿媳妇的表兄如何,前面句子的语义和后面句子语义无联系,“对了”,既不是对前一句子的肯定或认同,也不是前一句子语义结束的标志,已经成为一个语义虚化的,独立的形式,它的作用,已经从表示赞同的句法成分的桎梏中脱离出来,成为一个表示语用功能的话语标记语。
  考察近代汉语语料,“对了”发展成为独立的话语标记的用法散见于《官场现形记》、《小五义》、《康熙侠义传》、《文明小史》、《施公案》、《续济公传》等资料中,因为《小五义》中出现实例最多,我们根据《小五义》现存最早的刻本是光绪十六年即1890年刻本推断,“对了”作为话语标记的用法在清代光绪时期的1890年已经形成。
  语言使用的经济原则是“对了”成为话语标记的前提。
  篇章的句法语义整合性是“对了”成为话语标记的内在机制。
  评书说唱艺术的发展是“对了”成为话语标记的土壤。
  近代汉语中,“对了”作为话语标记一般处于应答句中,从语义上看,它的话语功能与表示正确的意义具有密不可分的联系。我们认为近代汉语中,“对了”作为话语标记主要具有以下两个功能。一种是话语接续功能,一种是话语的舒缓功能,避免言语的突兀,体现了表面上的无意与实际上的有意之间的矛盾。
  如下例:于恒来到双龙镖局南号的镖棚内。王爷可问:“于恒啊,怎么样啊?”“牛肉挣下来了,有我吃的,有九龄吃的。” “嗷!你上哪挣牛肉去了?”“对了!给我记着点,我们爷儿俩晚上没肉了。”“哈”王爷这笑啊:“放心吧,连你带九龄的全有!”傻小子于恒坐下来了。雍正剑侠图(下)
  上例中,“给我记着点”有强烈的警告语气,语力较重,给人相当不客气的感觉,加上“对了”则减缓这种感觉,舒缓后一句话的语气,带有半认真半戏谑的成分,不至于给听者造成威压感。

昼食・休憩(理事会)

午後の部 13:00~17:00

研究発表

3) 奥村佳代子(関西大学)

「近世日本人による白話文―創作白話文の題材と語彙語法」
 江戸時代の中国語資料には、発話体(一方が相手に語るものと、2人の会話からなるものとがある)、日本語原作の翻訳、創作など、表現形式としては様々なレベルのものが存在し、そこで用いられている中国語の様相は同一ではない。本発表では、日本の人物や出来事、物語を題材とした白話資料群を取り上げ、先行研究に基づいて白話文の題材について検討するとともに、語彙と語法を鳥瞰し近世日本人による白話に対する認識と受容状況の一端を紹介する。

4) 玄幸子(関西大学)
「太田辰夫「兼語動詞」と認知言語学」

 太田辰夫『中国語歴史文法』では「兼語動詞には使役に用いるものと被動に用いるものとの二種がある」(240頁)として「叫」「使」「讓」「被」「蒙」をとりあげている。さらに「教(叫)」「讓」については「使役と被動とに兩用される」とし、現代語あるいは白話に特有の現象として捉える。さらにこの兩用の原因を解説して「使役が被動にも用いられるのは意味上区別しにくい場合があるためで、元来同一のものを、使役のばあい《叫》などを動詞とし被動の場合は介詞とするような考えは中國語の本質に基づいていない」と批判しつつ、「使役が被動にも用いられるのは意味上區別しがたい場合があるためである。がんらい使役と被動との區別は客觀的な事實そのものにあるのではなく、主觀的な判斷にもとづく。」(247頁)とする。このような考え方はまさしく認知言語学の方向と機軸を同一にするものである。今回、認知言語学の視点から『歴史文法』「兼語動詞」の再検討を試みる。

休憩

特別講演 14:45~16:15

蒋紹愚先生(北京大学/清華大学)
「关于汉语古今差异的一些思考」

 蒋紹愚先生のレジュメは、こちらからご覧いただけます。

総会